昨今、人生で一番大切なのは、「いかにしてバカと会わないようにするか」だと、本気で思うようになってきた。
このバカというのは何も学歴が低いとかそういう話ではなく、社会に広く迷惑をかけたり、自分がそのような存在であることが理解できない、可哀そうな人種のことだ。
具体例を挙げると、まず当然凶悪な犯罪者。
彼らはたぶん遺伝的に犯罪傾向が高いので、環境や本人の心がけもあるものの、本質的に“どうしようもない”人々で、今回の記事で改善するグループには該当しないだろう。
そして、主にSNSで晒されている、文字通りのバカ。
回転寿司でコップをなめたり、カラオケで放火したり、写真を撮りたいから電車の緊急停止ボタンを押す撮り鉄、なども見かけた気がする。(Twitterはコンテンツメイキングの情報収集でチェックせざるを得ないが、本当はやめたい)
あと、車で信じられないスピードを出し、周囲を巻き込んで事故る10代の連中も、「運転技術にかっこよさを感じる」というゴミのような価値観の持ち主だ。
彼らも、改善するかあやしいレベルで下等で、単にレベルの低い人間たちがレベルの低い同士で結婚し子供ができ、レベルの低い環境や遺伝子のせいでレベルの低い“大人”が再び出来上がるという構図なので、救えるかはちょっと微妙なライン。
ただ、そういう人の中でも突然変異的にマシな人が出てくる事がある。周りにレベルの低い人が多くそちらに引き込まれてしまっているが、本来ならば多少まともな方向に行くことができただろう人も一部いるのではないか。
(遺伝は面白くて、中央値的に両親に似た個体が出てくる可能性が高いものの、全く違う素質が発現することもあり、マジでガチャに近い)
そして、このブログだから一応書くが、Apexで明らかに考えられない行動をして他人に迷惑をかける人。
そのゲームのプレイ歴が少なく、あまり分かっていないからならば良いのだが、実際のところ、例えばランクで、「真面目にやろうとしている人もいる中で別に自分はカジュアル感覚でやっているから、仲間のこいつらも付き合って4ぬのが当たり前」と思っているかのようにプレイする人間がいる。
そういう人種は共感力に欠けており、特にボイチャで声が聞こえるのにそういう行為が出来る人は、実社会でも空気が読めずに煙たがられている可能性が非常に高い。(コミュニケーションフィルタがONの可能性はあるが)
また、あのゲームをやってて、僕は何度「ポジショニングって言葉知ってるか?」と仲間に思ったか分からない。めちゃくちゃ流行っているゲームでその程度の座学も出来ない人は、本質的に能力が低い。(本人が一生懸命ならまだいいが、多くの場合そういう人間こそ人のせいにする)
さらに、Apex関連の動画のコメントでも、なんというか人に対して悪口を書いたり、レベルの低すぎる議論の勝ち負けで盛り上がっている人たちがいる。
彼らがある意味凶悪犯罪者よりタチが悪いのは、自分は知的にそこそこイケてて、他人を論破することができ、至極まともな人間だと思い込んでいることだ。
実際は、自分でコンテンツを作る以外の手段で自分の価値を表明したい、つまり努力をせず甘い汁を吸いたい能無しで、大多数にはそう見られている事に気づいていない。
少し前に新書で、「バカと無知」という本が流行った。
その中の一説で、「バカは自分がバカなことを知覚できない」という事が統計的に示されており、上記の人々の本質的な弱点である事は明らかだ。
かくいう自分は、自分でコンテンツを作って一応生活できる程度に成功することはできたが、作るものに驕りが出てクオリティが下がるのは言語道断だし、今後も気を抜かずに続けていかないと足元を掬われるな、と思っている。
個人での努力量にしても、1日に一定の時間を設け勉強することにはしているが、まだまだいわゆる「積ん読」になってしまっている本はたくさんあるし、知識やアイデアのアウトプットも後手後手に回っており、改善できる余地は多いにある。
人間関係にしても、自分だけでなく、特に家族により良い生活をしてもらいたいので、特に母・弟・祖父母の事で何か問題が起こったら、優先的に解決するアイデアを出したり、実際に商品を買ったりする時もある。(父はその時に面白いと思っている事を仕事外で楽しめたら満足なタイプ。今はネトフリらしい。)
ただ、現代社会は高齢化や運動不足・孤独などの問題を抱える人が多く、今後も僕が周囲の安心・安全を見張っている役割をする必要があるだろう。日々、そういった事を考えて生きている。
僕は、振り返ってみて、いわゆる「努力できる遺伝子」がかなり強い人間として生まれた可能性が高い。こんなに意識が高くなくても良いのだろうとは思う。
でも、僕の対極で、かつ圧倒的にレベルを下げた存在が、一番最初に書いたような人種である事は納得してもらえるはずだし、あのような人間が一部でも更生できれば、社会がより安心できる場所になることは間違いない。
(この意見に対し、「結局著者も自分のことをバカだとは思っていないのでバカだ」という反論は、甘んじて受け入れる。)
ここで、僕がこれまで生きてきた中で、今言ったような「ヤバい人間がいない安全な状況」に一番近かった環境があったことに気づく。
それが、中学・高校時代。私立の中高一貫校という半ば温室育ちと言っても仕方のない人間が行く場所だ。
そこでは、公立であればもしかしたら虐められていたかもしれない子供も、たしかにいた。
でも、彼らに対しても一定の優しさがあったし、何より勉強があるのでそんな生産性のないことをする人間はいなかった。
これが、元々ボンボンで余裕のある家庭の人間ばかりを集めたからそうなったんだろうと考える人が多いだろうし、僕もずっとそう思っていた。
でも、実は違うんじゃないか。僕たちのいる学校、その“システム”がそうさせていたのではないかと、最近は考えている。
(そもそも少なくとも受験時は成績関連の競争で親同士が不仲になったりなど、むしろ「金持ち性格悪いな」と思えるシーンは多い。
入学してからも、親同士でお互いの階級を値踏みして徒党を組んでるんだな、というのは子供心に分かったし、高級車を買う人は性格悪いでQEDらしい(ソースは忘れたが多分本)ので、少なくとも親は子供である生徒よりある意味レベルが低い。)
では、それが何かというと、朝の読書だ。
僕たちの学校、少なくとも学年では、朝の10分間読書をすることが決められていて、本を忘れた人はけっこう肩身が狭かった。
この、「本を読むのが当たり前である」環境。これがまともな人間を作るエッセンスなのではないか。
というのも、想像してほしいのだが、僕が最初に挙げた犯罪者、レベルの低すぎる人たち、ネットにいるヤバい人、彼らの内誰も、ゆっくりと本のページをめくっている姿を想像することはできない。
なぜなら、本を読む人間の持つ落ち着き・思考力・小説ならば共感力・そうでないならば知識など、どれもああいう人達からは一切感じられない要素だからだ。
僕自身も、浪人時代が人生で一番読書をしていなかった時期だったと思うが、やはり動画サイトに入りびたるだけのバカだった。(コメントはしなかったが)
その後大学以降に英語を勉強したり本をたくさん読んだり、とにかく自己を向上したいという思いを持ちながら過ごし、今は成長した自分ができることで周囲の人に何らかのメリットを感じてもらうことが、ある種快感になってきた。
(この対象が身近な人だけではなく、ネット上のコンテンツを見てくれている人々にまで拡大されれば、色々な作業を楽しんでやれるようになるのかもしれない)
現在は起きて洋書・日本語の本を読み、仕事の合間にも本を読んだりこうやって記事を書いたりすることで、知識のインプット・アウトプットを意識している。
こういう生活をしていれば分かるが、一日のどこか、特に頭がからっぽである午前中に(できれば起きてすぐ)本を読む人間が、上述のヤバい奴らに当てはまるような行動をしてしまう確率は、とてつもなく低い。
(ちなみに、朝の10分読書はたしか僕らの学年主任が作ったルールで、我々と1個下の学年が、歴代でも最強の進学成績だったらしい。東大京大医学部がわんさか。まあ僕は含まれていないが笑)
つまり、このような経緯で今回は「もし日本人全員が朝に10分読書するのが当たり前の世の中になれば、まともな人間が劇的に増えて、さぞ住みやすい世の中になるだろう」というのが趣旨だ。
だが、これらの論理をさらってもらえば分かるかもしれないが、今回の記事の裏テーマが以下になる。
「もしあなたが、自分はレベルが低い・どうしようもない・自分は底辺だ、と思うことがあるならば、今日からできることが1つある。それは英語でもプログラミングでも動画編集でもない。朝に10分でいい、読書をしよう」となる。
(「バカと無知」の内容に当てはめれば、自分をバカだと考えられる時点で本当のバカではない。ただ、何らかの事情で人生失敗したなと思っていたり、何でもいいから人生が好転するアドバイスがほしいと言われれば、上記の言葉を返す。自分の人生云々より、まずは社会のためにまともな人間になろう。)
ただ、今回の内容に自分で1つ反論をしておきたい。
これは僕が前から、「たぶんこうなんじゃないかな」と思うことの1つで、内容は、「働きバチの法則は国全体にも適用されてしまう」だ。
つまり、アニメやら小説の世界でよくある、「悪(僕らの言うバカ・他人に迷惑をかけても何も思わない人たち)を全て駆逐して良い世界を作ろう」という論だが、多分、それが出来たとして結果起こることは、「これまで善(まとも)側だった人間の一部が悪に移って、結果再び悪:普通:善=2:6:2くらいの世の中が出来上がる」だ。
実際は会社やクラスのように、他の誰かが頑張っている・成果を出しているのを見てやる気をなくすというのはマクロな社会では起こりえないのだが、どうも、我々が一定の集団に所属しており、種の滅亡を願っているのではない限り、バッファの役割を受け持つ人が自然と現れるようになっているようだ。
(バッファとは、緩衝材。ここでは、何か不測の事態が起こった時に、普段ろくに働いていない・社会でメインに活動している人とは別の方面に興味関心がある層が突如活躍し、種の滅亡を食い止める事。)
働きバチの法則は、本などを読んでいると「どうしてもそうなってしまう」タイプの法則の1つとして出てくることが多い。
ただ、実際に一定よりヤバい行動をした人(犯罪とかSNSで拡散されてしまうタイプの)を全て粛清するなどできるはずがないので、これは仮説にすぎない。
(アリとかが上に書いた風になるらしいが、同じ空間で働くタイプの動物だし、アリだし)
ただ、もし国民全員が朝に10分読書をするなんてことが実現したら、相当“安心”できる社会になることは間違いない。(なんといっても、道やサービス・ゲームでヤバいやつに会う可能性がほぼゼロ!)
が、実際に日本がこれを推進することは絶対にないだろう。国民がバカだから搾取できるし、国民がバカだから既得権力者層が努力をしなくても金持ちになれるシステムが残ったままで、国民がバカだから税金を余計に取れるのだ。
民草は、道を歩いていて急に殴られることがない程度にはまともな方が良いが、上記の状況がキープできる程度にはバカでいてもらわないと、支配しにくい。
最後に、この記事にもう1つ反論。
色んな双子の実験が示しているのは、遺伝子はとてつもなく強いという事だ。また、人の人生は教育より、偶然設定された友達間での自分の“キャラ”に大きく影響されることが分かっている。
これら2つの要素に対抗するのに、朝の10分読書は弱すぎるのではないか。
(中高一貫校に行く子供は親が努力して成功した割合が多いはずで、努力できる遺伝子を持つ確率が高い。
また、僕自身、中高では「スポーツができるキャラ」だったが、大学で正直パッとしないと思っていた所に入り、プライドからか1人でコツコツ努力をし、そこでやっと持っていた能力を発揮し始めた。これもある種「キャラ」の力。
なぜなら、大学では便宜的にある程度の人間関係を持たざるを得ないが、そこでは常に“最も優秀”のカテゴリーだったから。)
…それでも、僕は本を読む人間があんなバカげたことをする様は想像できない。(コップペロペロマンが家で静かに本読んでるわけないやろ!)
君はどう考える?
※この記事を読んでもらうと分かるが、僕は「人に迷惑をかけたくない・ヤバい奴だと思われたくない・まともな人でありたい」と考えており、これを「毀誉褒貶を気にする」と言う。
この傾向は体癖論の1種・2種にあたり、僕は人のコンテンツを一生消費していても楽しい父・弟が2種、自分のように記事や動画を作って自分の考えを知ってもらう・アイデアを出す傾向があれば1種だと思っている。
体癖は、主に体型からその人の特徴を統計的・整体の経験的に割り出したもので、以下のサイトが一番面白く知れる。(おもしろ整体・体癖研究所)
僕自身も、原典を辿って分かる情報で、ネットに転がっていないものを紹介する記事を書いた。興味があればチェックしてみよう。(僕は自分を1・4・9種だと半ば結論づけた)
ホントにラスト。
僕がこのようにバカを糾弾できるポジションにいるのも、今までの努力も、もしあるとしたら才能も、全て運だとするのが、以下の書籍だ。
基本的には、平和で格差がそこまで大きくなく、経済的にも豊かな日本に生まれたことに、感謝して生きていこう。
これは人によるかもしれないが、親にも感謝だ。